例の年ならずさみだれといふことのなきに、殿には階のもとの薔薇夏知り顔に開きたり。屋の奥はなほ涼しげなるを、庭には池の面を揺らす風のひと吹きだになくて、中の島はゆらゆらとかげろふに揺らぎて見ゆ。橋の下ばかりぞ影くろくて、頭もたげて覗くほどに鯉どもの泳げるがおぼろに見ゆるに、従者の頼(たより)といふ、おそろしきにかしらの毛ふとる心地ぞしける。
島のかたへの橋のたもとに、なににかあらん、うごくものあり。小暗ければ昼になれたる目にはやがてそれともわかず。
例の年ならずさみだれといふことのなきに、殿には階のもとの薔薇夏知り顔に開きたり。屋の奥はなほ涼しげなるを、庭には池の面を揺らす風のひと吹きだになくて、中の島はゆらゆらとかげろふに揺らぎて見ゆ。橋の下ばかりぞ影くろくて、頭もたげて覗くほどに鯉どもの泳げるがおぼろに見ゆるに、従者の頼(たより)といふ、おそろしきにかしらの毛ふとる心地ぞしける。
島のかたへの橋のたもとに、なににかあらん、うごくものあり。小暗ければ昼になれたる目にはやがてそれともわかず。
日傾き、ものまゐりはて酉の刻ばかりなりけり。日ごろ例ならず日照りがちなるに、夕涼みといふころなれば、すこし涼しき風などもや吹きぬらむ、御簾ばかりをおろしてみな廂のほどにぞゐたまへる。父中納言はあるやうあるべきにてまかりたまへりけり。大君女房ども若君の幼き御もの言ひをらうたくあはれがりなどしたまふ。もの縫ひなどするもあり。ややありて御乳母子の定則(さだのり)弘雅(ひろまさ)などして、昼つ方用意せさせつる、甕の大きなるに池の鯉をぞ遊ばせたるをおこさせたまへり。若君は池のいををば見知りたまへりやと、女房どもざれさわぐ。君の日ごろ近くには見倣はぬにや、怖ぢつるさまもをかし。ところにつけて歌などよみけれど、もらしつ。
父中納言は午の刻ばかりにおはしぬ。網代車にうちとけて狩衣姿にて、中将の若君、これは中の君の腹にて三歳ばかりなりけり、かい抱きてひとつ車にておはしけり。中の君なやましくはべればえ参らぬこそ口惜しけれ、とのたまふ。もろともにおはさましかばあはれなることどももおのづからきはぎはしからで語らひたまはましを、若君のみにては遅れたまふ身の知られたまはむこそなかなかならめと、女房どもさかしらがれり。大君は正身にもさこそ深からね疎ましうおぼえつるを、若君の薬玉持ち幼くてありきたまふらうたげさにぞうちとけたまひて、見えたまひて後はただかなしくあはれにぞ見たまふ。薬玉に結ひて、
君がため玉にむすべるあやめ草千尋のゆかり千代にとぞ思ふ
御返りごとには、
あやめ草ねのみなかるる玉の緒も君し思へば長くとも思ふ
とぞ。
前回の反省:
平安時代にも厨房のことを「かしき」と言ったかどうか。古語辞典には出てないんだよな……。
九条の大殿には父大臣けふなむ参りたまふとていみじうさわぐ。厨(くりや)にも女どもあまたさぶらへり。薬食ひと言ひて鯉などもありけるに、いづくよりか入りにけん、あやしき下衆のをのこ来たりて盗みにけるを、侍ども見とがめてとらへてけり。などさやうの悪行をばしつるといと辛く責むるに、をのこの言ひけるは、法師の説法には罪あまたしける人のただひとつの善業によりて許さるるもありけりとなむ聞きし。おのれかやうにわびしくはべればやがて死ぬべし、いまは魚の命も生けてこそおのれも助からめとてしつるなり、とぞ言ひける。さかしうも言ひつるものかなとて、侍どもいみじう笑ひけり。ややありて大君これを聞きたまひて、
あなたふと御法の道のゆかしきに入りて仏にこひねがふかな
通りに繋がれたる犬のいみじう鳴けるを見て、などてさやうにかしかましうも鳴くと人の言ひつれば、あないみじ、われもむかしは人なりけるをたれもたれも見つけぬぞ心憂き、さばかり執念くをめきつるに、ひとのさらに心得ぬこそあやしけれ、あはれのことや、などや言ふらむといらへけるこそおかしけれ。さやうのかたになして見ればさしもおぼゆるかし。まことに、あしき人の畜生になりかはりにけるなどはさやうにこそおぼゆらめ。
あなつれなあやめもしらずなきをればひるよるもなくいぬるだにえず
前回の反省:
反省というか、歌はね……。作ったときにはようやくそれっぽくなったと思っても、あとから見ると言いたりてなかったり意味不明だったり。いちおう断っておきますが、こないだの三首はあれで真剣に考えてまとめたんだよ。……まあしかたない。あと古今和歌六帖が欲しくなるね。